
私たちの感情は、どこから生まれるんだ?
先日、人工知能についての本を出版している人たちのトークショーのようなものに行ってきた。
人工知能って何やねん、という話になると当然、知能って何やねんという話になるわけだけど、知能が何なのかハッキリ定義されていないらしい。ということで、人工知能の定義も曖昧なままだ。
議論はもはや「人間とは何ぞや」「私とは何ぞや」「自我とは何ぞや」まで発展して、完全に哲学的な領域に入ってしまった。そして、ヒトの“知能”を人工的に再現しようとしたとき、「身体を伴わない人工知能に感情をもたせることはできるのか」という議論が生じる(そもそも定義のハッキリしない言葉を使っているんだから、もちろん議論は収束しない笑)
身体を伴わないということは、死や痛みが伴わないということ。それをなくして、感情は存在し得るのか?
近代化した社会に生きる大半の人々にとって、死は突然やってきて早急に処理されなければならないものだ。
養老先生曰く、遠い昔は、行き倒れた人の死体が道端に転がっていることは珍しくなく、死んでから腐って朽ちて白骨になるまでの過程が日常に晒されていたらしい。
今は、腐乱死体が見つかるとニュースになったり、ニュースにならないまでも関係者によって早急に始末される。テロや大災害が起こっても、たぶんそこには多くの死があるんだろうけど、映像で伝えられることはあまりない。
生を謳歌するために、私たちは死を遠ざけている。でも、生が身体と共にある限り、死も常に共にある。
この本の大きなテーマは「散骨」で、愛する人の骨をその人の愛した場所に還した人々のストーリーが紡がれる。著者も、愛する父の骨を海に散骨している。
散骨というとギョッとする人もいるかもしれない。でも、身体を自然に還すことで、愛する人の死を受け入れるというプロセスが少しは緩やかに、穏やかに、納得のいくものになるんだと思った。そして、命はやがて果てるものだと実感できる。
この本には、生と死が詰まっている。それでも重苦しさはなく、軽やかでいて温かい。命というのは本来こういうものなんじゃないか、と思わされる。
他者から愛され他者を愛し、触れ合いながら、喜怒哀楽をゴチャ混ぜにして生きて死ぬ。これはやっぱりカラダがあるからこそだよなぁ。頑張って生き抜いたカラダを好きな場所に還してあげるなんて、すごく深い愛情表現だわ。
私が死んだら、私の骨も自然に還してもらおう。場所はどこにしようか…と考える前に、それだけのことをしてくれるぐらいに、誰かと信頼関係を築かなきゃいけないですね!
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